形式の経験/経験の形式
- 日時
- 6/12(金) 18:30開場 19:00開演
- 現地
- 両国門天ホール
- 配信
- Peatix Live
- 料金
- 前売 3300円(7日間アーカイブ動画付き)
配信 2800円(7日間アーカイブ動画付き)
当日 4000円 - 奏者
- 加藤綾子(Violin)
井口みな美(Piano)
灰街令(Piano, Electronics) - 予約
- reihaimachi20260612.peatix.com
灰街令の作曲作品展を実施します。前半はピアノとヴァイオリンというミニマルな編成によるアコースティックな音楽群を、信頼する音楽家であり友人である、加藤綾子さんと井口みな美さんのおふたりに演奏していただきます。後半はわたし(灰街令)自身がエレクトロニクスとピアノによる演奏を行います。
わたしは作曲を続けるなかで、まったく新しい音楽を作りたいとか、音楽史の先端に自己を位置づけたいとは思わなくなってきました。むしろわたしは音楽という構成物の持つ一般性(この言葉を嫌がる方も多いと思いますが一旦そう名指します)に作曲を通してアクセスすることに関心があります。つまり音響現象がどのようにして音楽として(また時に良い音楽として)構成されるのか、され得るのかという問いに関心があるということです。
近年、わたしはクライアントワークを受けて広義の付随音楽を作ることが増えてきました。そうした音楽で重要なのは機能性です。わかりやすい例をひとつ挙げます。たとえば日建設計の自社オフィスの全面改修工事にあたり、その一区画のサウンドスケープデザインのチームに加わり作曲を行ったことがありました。そこでは音楽には、それぞれの空間の機能を心理的にアシストすることが求められました。わたしは、日建設計社員へのアンケートを通した、印象の定量的なマッピングを元に、音楽を微調整していきました。ここでは音楽は、空間との関係において、「リラックス」などの生活的機能を音に持たせることを基準に構成されるものとなっています。
一方で、機能和声という言葉があるように、鑑賞のために制作される音楽作品も(和声に限らず)さまざまな機能を持っています。それらはしばしば日常への働きかけではなく、あくまで作品の内的構造における諸部分の関係に関わるものですが、ここでも音を音楽にするための機能があるということです。
最初の話に戻りましょう。音楽がどのようにして生まれるのかということを考える時に、わたしが最初に退けたのは、シンプルに言えば魂が個々のあり方で歌うように音楽が生まれ、それが伝わるという考えです。その考えはあたかも心に固有のオシレーターが搭載されていると主張しているようです。代わりにわたしが注目したのは、音楽が音楽であることを成立させるために音楽自身に対して持つ機能性でした。その時にわたしは、あらゆる音楽を生み出すただ一つの構成原理を考えるのではなく、複数の構成原理がモジュールのように組み合わさっているのだと考えました。そうした複数の原理のリアライゼーションとフォーメーションによって、音楽、演奏習慣なども含めた音楽文化、個々の音楽の固有性、そして「良い音楽」が創発するのだと(いえ、身体的な習慣こそが音楽の内実であり作品はそのエフェクトであるという視点もあり得るし、またわたしはそのような考えに近年惹かれてもいますが、そのことについてここで話すのはやめておきましょう)。それは原理と言うよりも傾向性と言うべきものかもしれません。
もちろん、わたしが作っている音楽も聴いている音楽も、世界のあらゆる音楽のなかの一部に過ぎません。それでもわたしは作曲家として音楽一般を、手の届く範囲で抽象的に捉えようとしてきました。たとえば音楽作品にしばしばみられる、ある要素や何らかのパラメータの値の、揺れを含んだ反復。および反復の在り方自体の揺れを含んだ反復。様々なパラメータの値の変化のある程度の協調性。各パラメータの応答関係。予備-運動-推移のような段階的なイベント変化の傾向のことを考えました。また音楽の構成に関わる様々な法則、たとえば、ある要素の発展や変化のあり方が単純な関数として認知されるとそれが持続へと変容してしまうことや、細部の変化の認知と全体の構成のダイナミクスとの間のトレードオフのことなどを考えました。上に書いたことがらは「音や音と音との関係が、その瞬間には鳴っていない音や音と音との関係を参照する際の参照負荷のデザイン」として統一的に考えることができるように思っていますが、その話をここでするのはやめておきましょう。
わたしは、よい音楽を作りたいと思っていました。また同時に音楽が音楽として立ち上がることに不思議さを感じていました。どうして良とされる旋律と悪いとされる旋律があるのだろう。リズムは特定のパラメータというよりも、パラメータの値の変化におけるアクセントの存在によって生じてくるものだけれど、どうして音楽においては様々なパラメータの値の変化をリズムという評価領域に引き入れて質的に一元的に扱うことが容易にできるのだろう。あらゆる瞬間に異なる統計的な音の予測を行うそれぞれの聴者が、同じ音楽を聴いているというのはどういうことなのだろう。音楽における作品内の記憶の参照と作品外の記憶の参照はどのように関係しているのだろう。わたしは、人工生命の構成論的アプローチのように、「あり得たかもしれない音楽」を作ることで音楽を知ろうとしているのかもしれません。
わたしは自身の音楽経験に基づく思考を大量にメモ書きにしており、まるでAIに読ませるプロンプトのように、自分自身の手や耳にそれらを適用することで作曲をしています。わたしはわたしが作る音楽に魂が必要とは思っていません。作曲を可能にする身体化された技能・テクノロジー・制作環境・参照される記録/記憶等の相互作用の効果が「わたし」であり、抽象化された「音楽的なもの」を「再現」する働きの揺れや偏りがオリジナリティであると考えています。究極的にはわたしは、わたしの固有性よりも、わたしの再現性に関心があります。
人はものに魂をみてしまうように思えます。ぼろぼろになったぬいぐるみは、思い入れがなくてもかわいそうに思えます。その心の働きは美しいものだと思います。魂があるかどうかよりも、魂があるかのようにみえることに意義がある。わたしはあえて「不自然」に形式主義的に音楽と関わることを通して、魂を創造可能なものにしたいと考えています。
この作品展で演奏される音楽は(1曲を除いて)すべてこうした問いと共に作曲されたものです。わたしは、作品ごとに異なるいくつかの限定された規則を適用することで(しかしヒューリスティックに適用することで「わたし」を畳み込みつつ)音を音楽に現象させようとしています。