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Text — Statement

形式の経験/経験の形式のための断章

作曲作品展のためのテクスト — 2026年6月12日

序論はこちら

クラシック音楽の演奏会の伝統においてプログラムノートと呼ばれているものの多く(特に作曲家自身が自作を解説したものの多く)は読むに堪えない。単なる舞台裏としての解説を超えて、テクスト自体がひとつの舞台であり上演となるような、そうした様式は可能でしょうか。

「わたし」を帰納する

曲目解説 一

1曲目に演奏される《Trace of Portrait》は、ごく短い音楽的断片を譜面で作曲した後にMIDIデータ化し、そのデータに対してDAW上のピアノロールエディタで操作を加え、その結果を浄書ソフトで再採譜したものです。ピアノロール上では、オクターブの変化、発音タイミングの微細な変更、部分的な削除、部分的なコピーとペーストといったシンプルな操作を何度も再帰的に施して、反復と変奏という音楽にとって重要なふたつの要素を形成しました。その作業は、伝統的な作曲にみられる内的な耳で聴いたものを書くというものとは異なり、指先で、ほとんどその結果を予想することなくピアノロール画面上のデータを変更し、それを耳で確認するということの繰り返しでした。この作業を通してわたしはわたしの音楽をはじめて見つけることができたように思います。この音楽は2018年に作曲されました。(解説一、終わり)

西洋音楽の一部に見てとれる楽譜中心主義はむしろいわゆる音声中心主義と呼ばれるものの表れだろう。代理であるところの物質的な音に先行する作曲家の声という理念。クラシック音楽の作曲にはかつてソフトウェアのプレイバック機能に頼ってはいけない(五線譜とペンだけで作曲できることが好ましい)という規範があったという。おそらくこの規範には、アコースティック楽器の鳴りの制約を音源に騙されずに忠実に捉えるという以上の含意がある。

拡張された心。心や記憶は身体に閉じているわけではない。環境が変わってしまえば思い出せない記憶、再現できない運動。わたしはわたしの手と耳でわたしの音楽を探した。はじめはランダムだった手の動きは、知覚と連動してやがていくつかの特徴を得ていった。癖づけられたランダムネス。ではそれを癖づけたわたしとは? ソフトウェア? インターフェース? コントローラ? わたしの内側にはなかった響きや構造は、わたしのものになった。つまりより広い環境で再現可能なものになった。

逆説的なことに、かつての音声中心主義は記譜法、書くことの法という環境に支えられていた。

もしも生物を形作る諸要素の変数が遺伝的レベルで予め決定されていたら、つまり環境のランダムネスに沿った体細胞的変化の余地なく完成した姿が遺伝的レベルに書き込まれていたならば、環境の微小な変化すら致命的になるだろう。実際は、自然選択は遺伝レベルのランダムネスを制御し、遺伝レベルは体細胞変化レベルのランダムネスを制御していると言える。

「譜面作曲の技術の欠如」が原因でわたしは音楽大学の博士号を落としている。この理由で学位を得られなかった学生は歴史上わたしだけだった。

作曲家のジョン・ケージはプリペアドピアノの音作り(そしてそれは1951年以前のケージの作曲そのものでもある)を浜辺で貝殻を拾うことに喩えていた。1950年の《4部分の弦楽四重奏曲》では、弦楽四重奏を素材に音を拾い集め、あらかじめセットし、これもまたあらかじめ小節に設けておいた仮想の区切り、つまり中身のない時間の箱のようなもの、にそれらを投げ込むようにして音楽が作曲されている。ケージは時間スケールとして作品を捉えていたのだと思う。この傾向は後に、かの有名な曲において、鳴る音と鳴っていることにすべき音(一般的にほとんどの音楽はこの切り分けを行っている。部屋で音楽を聴いている時に突然鳴らされるインターホンは音楽の内容ではない)の区別は取り払われ、時間の幅(および中仕切り的な幅のなかの幅)自体が作品ということになる。

しかし、単なる幅であるはずの、ある幅とある幅の間には、その内容物(という言い方はあまりに空間的だが)同士にどうしても繋がりのむらが生まれる。たとえば聴者は音と音との間にフレーズを聞いたり、同じ音の不規則な出現に何らかのパターンを見出してしまったりする。物と物の間に霊が宿る。旋律も構成も物ではなく関係だ。

「私」とは遡行的だ。私とは私を作る私に他ならない

ケージはむしろ1951年以後の偶然性の試みによってアメリカの実験音楽に大きな影響を与えた。偶然性以前のケージと以後のケージはしばしば連続的に語られる。だが、偶然(chance)と偶発(accident)の間には大きな違いがある。

19世紀の心霊主義は、実験とそのパフォーマンスという体裁をとっていた。
アメリカの実験心理学の祖であるウィリアム・ジェイムズは、やがて心霊研究に没頭するようになる。

進化の奇妙なところは、それが偶然の積み重ねの結果生じる偶発的な副産物(side effects)であるにもかかわらず、世代を経た大量の試行の後に、遡行的に目的をもっていたように見えるということだ。こうした目的論が遡行性を忘れるとき、ラマルクやスペンサーの(今日的に見れば俗流の)進化論を促すことになる。ダーウィンは偶発とその自然の制御の側に留まろうとした。

偶発(accident)を制御すること、つまり、遡行的な目的の制御

認知と呪いは似ている。わたしは生涯、唯物論者であり続けるだろう。

音楽の構造自体が持つ目的の問題とは、音と音が相互に持つ蓋然性の問題だ。
暗意実現モデルという情報論的音楽モデルでは、音楽において聴者は次の音の予想を絶えず行っているとされる。次の音の統計的な(しかし実際はヒューリスティックな)予想が音の情報量を決める。つまり予想から大きく外れる音は情報量が高いとされる。(これはシャノンの情報概念に依存している)。1956年にEmotion and Meaning in Music という書籍のなかで暗意実現モデルの祖先を作ったレナード・マイヤーは、コンテンポラリーなクラシック音楽としての「現代音楽」に批判的だった。現代音楽はあまりに(シャノン的な意味での)情報量が高すぎる結果、ほとんど予測が成り立たないとマイヤーは感じていた。結果として、予測(音楽が持つ目的の認知)とその裏切り(目的の新しい生成の認知)という、音楽にとって重要な構造がそこでは失われている。マイヤーは現代音楽を、無秩序な音が飛び交うだけの「バナナパフェ」のようだと評した。

バー=ヒレルとルドルフ・カルナップはある命題が世界の状態をどれだけ制限するかという点から情報量を測ろうとした。トートロジーは情報量がゼロになり、ありそうもないことは情報量が高い。これはわたしたちの日常的実感に即しているようにも思える。しかしこの定義では矛盾は情報量が無限大になってしまう。問題は対象を受信者ではなく世界の状態と設定したことだ。

前衛の理念の(きわめてアメリカ的な形での)擁護者であるミルトン・バビットが、その音楽理論を支えるメタ理論≒美学において論理実証主義の影響を受けていることを、マイヤーは厳しく批判している。

相互情報量は、ある情報が元の不確実性をどの程度減少させたかで測られる。つまりより不確実なものをより確実にする情報があらわれたとき、相互情報量はより大きくなる。問題は静的な世界ではなく、動的なある知識体系だ。戦後の現代音楽の問題は、情報量の増大に対する相互情報量の減少と言える。クリストファー・ラングトンは相互情報量が最大となる状態を「カオスの縁」と名付けた。生命現象はカオスの縁で起こるとも言われている。

目的の副産物と副産物の(遡行的な)目的論、つまり偶発(accident)は、非目的論的な偶然(chance)に対置される

シャノンも所属していたベル研究所はE.A.T.をはじめとして芸術を生み出した場でもあった。E.A.T.にはケージも関わっていた。

ヴェルベット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルはケージに影響を受け、また実際に共演もしていた。ヴェルベット・アンダーグラウンドのデビューアルバムにはウォーホルがデザインしたバナナが描かれている。

曲目解説 二

2曲目に演奏される《Palimpsest and Coda for 1001》は、2024年にヴァイオリニストの加藤綾子さんからの委嘱で作曲したものです。かつて、貴重であった羊皮紙などを再利用するために、既に書かれた文面を消して新しい文章を上書きした古文書をパリンプセストといいます。本作ではあたかも羊皮紙を使いまわすように、バッハの書いた音符たちの一部を削除し、その上から音楽を書きつけ、曲の終わりにコーダを付け加えました。音楽にとって重要な、次の展開の予測とその異化という聴取の働きが、ここでは、著名なバッハのヴァイオリンソナタ(BWV1001)の書き換えという即物的でリテラルなあり方で実現されています。(解説二、終わり)

私的なものが先立って存在するわけではない。この音楽のコーダが私的に聴こえるとすれば、それは音楽内での要素の配置によるものである。
大学では《Palimpsest and Coda for 1001》のコーダ部分は意図が不明と評された。おそらくその評価は正しい。

19世紀の西洋音楽で霊感と呼ばれたものは、あるパターン形成に生じる反復的なものの逸れ、あるいはパターン化やその終わりの起点となるものだろう。つまり技巧として取り出せるものの外側に霊感が措定される。癖づけられたランダムネスは作曲家の魂として遡行的に発見される。そして「偉大な」魂以外は「霊感」とは認められない。音楽史はノイズに顔を見出そうとすること、つまり心霊写真にどこか似ている。映画『霊的ボリシェヴィキ』では交霊術の成功を測るために賽が投げられる。霊的現象は確率を乱すというわけだ。

曲目解説 三

3曲目に演奏される《Geoguessr Killertomatoes MetaphysicalClub》は新作です。チャールズ・アイヴズ、エリオット・カーター、ヴァン・ダイク・パークス、フランク・ザッパといったアメリカの作曲家の音楽を聴くこと、『メタフィジカル・クラブ』というアメリカ思想史の書籍を読むこと、作曲すること等をポモドーロテクニック(作業を細切れにして集中力を担保する方法。考案者がポモドーロ=トマト型のタイマーを使っていたことからこのように呼ばれる)によって切り替えながら作曲されました。音楽にそのことがどの程度影響しているかはわかりません。Geoguessrはわたしが最近ハマっている、Google Mapと連携した土地あてゲームです。(解説三、終わり)

 大陸中心の傾向のあるクラシックの世界にいたからか、英米(より正確に言うならばアングロサクソン)の文化に奇妙な興味深さを感じる。アングロサクソンにはみえるもの操作できるものに徹してドグマを排除しようとする手つきがあるように思える。英米法、経験論、プラグマティズム、行動主義や生態心理学からアメリカ実験主義音楽まで至る系譜。わたしは横田飛行場の近くで育った。東アジアから西洋を通して見る、オリエンタルな場所としての米国

 Geo GuessrのためにGoogle Mapで各国各地を眺めて、地質、植生、文字、ナンバープレート、電柱などを覚えている。Google Mapを眺めているとその風景から南アフリカ共和国のアパルトヘイトの歴史を実感できたりもする。とはいえアメリカの企業が運営するGoogle Mapは中立的ではない。Geo GuessrでもGoogleストリートビューによって公式にカバーされていない地域は出題されない。イスラエルは出題範囲だが、ガザ地区は出題範囲にない。

プラグマティズムの発祥地であるメタフィジカルクラブのメンバーであったチャールズ・サンダース・パースのアブダクションという推論法は、おそらくパースの黒人差別、そして今日の生成AIのバイアス問題とも繋がってしまっている。

『アタック・オブ・キラー・トマト』はZ級映画と言えるホラーコメディ。音楽がやたらと良い。

曲目解説 四

4曲目の《In cloudy Light》は例外的な作品です。2020年のコロナ禍において作曲し、井口みな美さんが自宅のピアノで弾いたものをスマートフォンで録音して送ってくれたのが初演です。これはわたしの作品では珍しく、思ったままの音を、思ったままに置いていって作りました。他の作品と並べた時にこの音楽がどう響くのかが気になって、今回の演奏会の曲目に入れました。6年前と比べて、わたしは日々のなかで思うことも感じることもおおきく変わりました。わたしは6年前のわたしを再現することができません。(解説四、終わり)

私的なものが先立って存在するわけではない。この音楽が私的に聴こえるとすれば、それはこの演奏会のなかでの音楽の配置によるものである。

連続的で時間的な現象である音において、「一音」が任意に設定できる単位である以上、音や音楽の「要素」は構築的だ(過去把持、未来予持、つまり「現在」の幅の問題)。このことは「一曲」という単位にも適用できるだろうか?

再聴の問題は難しい。2回その音楽を聴けば明瞭にわかる構造は明瞭な構造と言えるか。これはイベントの時間幅の問題にもつながる。30秒後に30秒前に起きていたことがわかるという構造を良しとするとして、どこまで?
再聴と反復やダ・カーポに本当に質的な違いがあると言えるだろうか?

ある音の質感やパラメータ群が作るパターンの反復の後、新しい要素によって反復が裏切られる。その裏切りのあり方は、①意表を突かれるものかもしれないし、②他の曲でもよく聴くものかもしれない。仮にあなたにとって意表をつくものだったとしよう。曲を聴き終わりすぐそのレコードを再び再生する。先程の箇所が印象に残っている。この時、2回目に聴くその箇所の印象はどうなっているか。
経験的に言って、これは①そのものではないにせよ、②よりは①に近い印象を同じように覚えるとわたしは思う。ある音楽における音楽的記憶は、当該の音楽内での記憶と過去に聴いた様々な音楽についての記憶をある程度隔たった別のレイヤーで参照するが、過去に聴いたある音楽と同じ音楽を聴く際には、その過去の聴取の記憶は三つ目のレイヤーとして隔たって現象するように思う。ここに「作品」の奇妙な性質がある。作品に対峙する感性は初回限定特典を再来店時にも貰おうとする客のようなものだ

曲目解説 五

5曲目に演奏される《Prototypes》は、《pseudo》という今年のはじめに大学で発表し(学位を落とす一因にもなり)後に没にした音楽を、ほとんど原型がみえないかたちで再作曲した新作です。以下は《pseudo》の解説となります。

「揺れのある反復、旋律のかけら、断片的な和声進行、独立したトランジションといった、本来は有機的な作曲の結果として現れるはずの音楽的部分を切り取ったかのような素材を、貼り合わせるようにして作曲しました。瓦礫であり音楽の遺体であるような散らばった音たちが、配置によって息を吹き返すならば、それを音楽と呼ばない理由はありません」

蘇生術は失敗しました。しかし再び試みることはできます。また、この音楽の最後には《Palimpsest and Coda for 1001》のコーダ部分が自己引用されています。(解説五、終わり)

進化の奇妙なところは、それが偶然の積み重ねの結果生じる偶発的な副産物(side effects)であるにもかかわらず、世代を経た大量の試行の後に、遡行的に目的をもっていたように見えるということだ

繰り返されれば意図になる。

19世紀に登場した最小二乗法のような統計的思考では、的の中心はそこに的中する矢がないとしても外れた矢の分布によって示され得る。つまり上位の階層-視点では下位の非目的的で曖昧な形を目的的に示し得る。ところで、音楽において不確定な記譜はどんなに曖昧でも、ある音楽的アスペクトのある時間階層において、ある目的を示したものとして読む/作ることができる。音楽の曖昧さとはある階層における曖昧さであり、上位からみた音楽のある形=目的に対するばらつきと言える。つまり、ミクロな揺れをマクロに制限することはできる。戦後の現代音楽も確率の時代だった。不確定性は一例に過ぎない。

《Prototypes》では全体のほとんどが確定されて記譜されているが、その一部に関して、記譜された楽譜をあくまでプロトタイプとして扱うようにと指示が書き込まれている。わたしはこの言葉を、ある目的性によって確率的に何かに(この場合奏者と聴者を想定している)作用するものと捉えている。

近況報告。時間通りに行動するのが極端に苦手でそれを克服しようとした結果「人は意志で現在をミクロに制御することはできない。できるのは偶然性をマクロに制御すること。行動の設計がなされた時点で未来は概ね決まる。わたしは事前に道付けられた私を楽譜通りに演奏する」という思考に至った。

「楽譜通りの演奏」とはミクロに確定的なものではない。

休憩
(おしゃべりを続けて!)

曲目解説 六

無題。ティモシー・リアリーについて興味深く思うのは、チベットの死者の書を書き換えた書籍が、ビートルズに《Tomorrow Never Know》というポストプロダクションを創作過程に全面化させた音楽を作らせたということ。

曲目解説 七

《De_Re_De_S/N_T/S_20260612ver》。Deは接頭辞であり、S / NはSign / Noise、T / SはTime / Space を主として表している。ピアノの実演の背後では、事前に録音された演奏が再生される。実演と再生の音楽は聴覚上の判別を無効化するように似寄りつつ、音響スペクトルに微妙な差異が与えられている。

鳴り響く音は常に過去に由来してきた。それは一音楽作品内的記憶に根ざした参照関係として認知されることもあれば、より広く過去の音楽的記憶との参照関係として現象することもある。ある音を知覚するためには空気の周期的振動という記憶未満の記憶を必要とする。知覚に先立つ記憶。揺れ動く星座。

曲目解説 八

《A Portrait in a Room with Rubbles and Ashes without Fire》。2024年の作品。弾き始めたばかりのギター、1年以上調律してないピアノ、夜中にひっそり歌った鼻歌。部屋にあった「傷のある」素材の断片をSM58で録音し、クリップノイズも気にせず切り貼りして作った。素材が秘めている(遡行的に発見される?)形にならなかった音楽が歌われてくれるよう。

曲目解説 九

無題。
偶発(Accident)の再–組織/偶発(coincidence)の再–現。

Violin: 加藤綾子

リサイタルやパフォーマンス作品の上演などを行う。ベルギー・ナミュールの音楽院「IMEP」修士演奏家課程を、学年最高得点にて修了。
これまでの主な作品に、リサイタル「形式を呼吸する」、パフォーマンス「ヴァイオリニストによる(メタ)フィクション」「アイム・ミート!」など。KAAT「カイハツ」、豊岡演劇祭フリンジ・ショーケース、金沢21世紀美術館 芸術交流共催事業「&21+」などに採択される。

Piano: 井口みな美

国立音楽大学及び同大学院修士課程器楽伴奏コースを修了。
第17回日本演奏家コンクール第1位受賞。
現代音楽演奏コンクール“競楽XIV”ファイナリスト。
近年はソロに加え、アンサンブルピアニストとして室内楽、器楽伴奏等を中心に幅広く活動しており、特にサクソフォニストとの共演が多い。
また、作曲家の新曲初演などを通して、ピアノの新しいレパートリー開拓にも力を注ぐ。
現代音楽ピアニスト集団「ピアノのアトリエ」所属。